2014年10月25日イギリスのコンサート会場「O2アカデミーニューカッスル」でのソールドアウトライブ
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天使の歌声は、どのように生まれたのか?

サム・スミス「本当の自分を受け入れることで、ようやく、こうやって僕の歌が皆に受け入れてもらえるようになった」

2015年2月9日、第57回グラミー賞授賞式で舞台に立った、英国の若きソウルシンガー、サム・スミスのスピーチは、世界中の音楽ファンの胸を熱くした。

この授賞式で彼は、主要4部門の内、年間最優秀レコード、年間最優秀楽曲(共に『スティ・ウイズ・ミー~そばにいてほしい』)最優秀新人賞の3部門と、最優秀ポップアルバム(『イン・ザ・ロンリー・アワー』)の4冠を獲得、一躍、世界の音楽シーンの中心人物となった。そんな、今最も世界から注目されるソウルミュージシャン、サム・スミスの音楽がどのように生まれ、ここまでの評価を勝ち取って来たのかを、彼のインタビューをもとに3回連載で紹介する。今回、第1回目は、彼の歌声がどのように生まれたのか? その少年期に迫る。

8歳のころから地元のジャズシンガー、ジョアンナ・エデンの元でボーカルのレッスンを受けていたというサム・スミスは、1992年に英国のケンブリッシャー州リントンに生まれた。大叔母が英国最初の女性銀行家の一人という家系で、母親も金融業界の大物と呼ばれる女性だった。そして、父は主夫をしながらサムと二人の妹の面倒を見ていたという。 サム・スミス「家では、父が弱いわけではなかったけれど、常に女性が主導権を握っていたね。こういったエストロゲン(女性ホルモン、卵胞ホルモン)のレベルの高さが、僕の音楽への愛に一役買っているんだ」 エストロゲンのレベルの高い家庭で育ったサム・スミス エストロゲンのレベルの高い家庭で育ったサム・スミス (C)Euan Cherry / Photoshot / ゼータ イメージ 彼がそう語るように、子どものころからサムの家庭にはホイットニー・ヒューストンやチャカ・カーン、エタ・ジェイムズなどの女性ソウルミュージャンの歌声が常に溢れていた。 サム・スミス「僕が最初に理解した曲の一つが、アレサ・フランクリンの『小さな願い』だった。彼女のボーカル、その力強い歌声が自分にとって自然に聞こえたんだと思う。小さい頃に魅かれたのは、いつも彼女たち女性ソウルシンガーの声だった、そしてその奥にある心とパワーだよ。それは、きっと母や叔母たちの影響だろう。男性ボーカリストの曲を聞き始めたのは、ここ1~2年だよ」 中でも、彼が心を動かされた最初のアルバムとして覚えているのは、ホイットニー・ヒューストンの『マイ・ラヴ・イズ・ユア・ラヴ』だという。このアルバムは、麻薬スキャンダルでスランプに陥ったホイットニーが起死回生を賭けて制作した作品。彼は、幼い頃から鋭い感性で、心から歌い上げる質の高い音楽を感じとっていたのだ。 学生時代の彼は、ポップカルチャーの大ファンとなり、『E! ニュース』を見ながら育った。そんな音楽に夢中の少年期を送る一方。サム・スミスは、10代前半にはジョアンナ・エデンのバックシンガーとして、ロンドンの有名なジャズのライブで経験を積んでいった。 22歳ながら10年近いパフォーマンスのキャリアを誇るサム・スミス 22歳ながら10年近いパフォーマンスのキャリアを誇るサム・スミス (C)David Wala / Photoshot / ゼータ イメージ また、同じ時期に、サムはロンドンの芸能学校でパートタイムのクラスを受けている。その時のボーカル・コーチも、彼の溢れんばかりの才能を強く応援したという。シンガーとしての彼は、当時から大いに注目される存在だったようだ。 そして、18歳になるとサムは、ロンドンに出て本格的にミュージシャンを目指すことになる。 サム・スミス「僕の周りは皆大学への進学を決めていた。だから、学校の先生は『ロンドンにでて、歌手になる』といった僕の言葉に驚いていたよ。でも両親は、そんな僕の決意を一度だって疑う事はなかった。いまでも家族には、本当に感謝しているよ」 親の理解もありロンドンに出た彼は、その2年後には、早くも英国の音楽シーンで頭角を現しはじめ、世界を代表するソウルシンガーへの階段を上がっていくことになる。 ロンドンに出てからのアーティスト、サム・スミスのサクセスストーリーは、次回第2回目の「音楽界に衝撃を与えた“天使の歌声”」へ。

Text by Daisuke Honma

Top Image:2014年10月25日イギリスのコンサート会場「O2アカデミーニューカッスル」でのソールドアウトライブ (C)David Wala / Photoshot / ゼータ イメージ