男の隠れ家_2017年2月号
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【男の隠れ家】大注目の 二ツ目落語家

創作数は百席間近、若き"三題噺"の職人
柳家わさび

「先人が残した古典落語
そこに一手でも加えられたら」

温かい目線で描く噺は
鮮やかに人々を活写する

油絵を学ぶために入った日大芸術学部で、落研の新入勧誘に捕まるまで、落語は全くの未体験だった。まさか自分が演じることになるとは思わぬまま、いつの間にか入部の手続きを取られ、逃げられなくなった。

「二学年上に面白くて豪快な先輩がいて、いつもくっ付いていました」後輩に無茶ぶりをして大笑いしている腕白(わんぱく)小僧のような先輩は、高座に上がると凄(すさ)まじい迫力で他を圧倒していた。驚くわさびが、落語初心者と聞いた彼は、立川志の輔のCDを渡す。これにのめり込んだ。

「それからは手当たり次第に聴きました。お気に入りだったのは圓生師匠の『一人酒盛』です。本当に〝てへっ〟と笑う表情が浮かんできます」

余談だが、その先輩は当然わさびより早く卒業し、芸界の門を叩いた。現在の春風亭一之輔である。わさびも卒業時に迷いはなく、落研OBの柳家さん生に入門した。

内弟子という、落語らしいが極めて前時代的な前座生活を経て、二ツ目になったわさび。古典落語のネタおろしと、客席から三つのキーワードを求めて一席に仕立てる〝三題噺〟を高座にかける勉強会を始める。1カ月の制作期間があるため、即興ではなくきちんとしたストーリーが求められるが、評判は上々だ。

彼の物語には弱者やマイノリティなど、世間からは冷遇されがちなタイプを温かい目線で描いた噺が多い。そこには愚か者の与太郎や、貧乏だが愛すべき長屋の人間を鮮やかに活写する古典の匂いがする。「古典落語は偉大な先人たちが残した棋譜のようなもの。そこに少しだけ自分なりの言葉を入れただけでも、噺家になった甲斐があります。定石から逸脱するような新手はそうそう見つかりません。まずは古典です」

そんな勉強会も8年目。他でも求められる定番もいくつか出てきた。「小ゑん師匠の『ぐつぐつ』、圓丈師匠や喬太郎師匠の作品の中にも、すでに古典と呼んでもよいものもあります。そこに私の作品が一席でも入ったら、噺家冥利(みょうり)につきますね」

"今どき男子"が放つ、切れ味抜群の啖呵
柳亭小痴楽

「ブルーハーツを聴こうと思ったら落語の音源が入っていました(笑)」

バスケに夢中だった少年が
いかにして落語を志したか

「下手の横好きですが、バスケやスケボーが趣味です。無理して和物にこだわりません。等身大です」

ポップな雰囲気を持つ今どきの若者。しかし、落語との出会いを聞けば明らかに異色の返答が…

「音楽を聴こうとCDを回したら、自分で買ったブルーハーツではなく、八代目・春風亭柳枝の落語でした」

そんな冗談のような話が現実に起こる環境で育った。父は五代目・柳亭痴楽。破天荒な芸人の匂いが色濃い、知る人ぞ知る噺家だったのだ。「なんとなく普通の家庭ではないと感じていました。やたら旅に出かけるし、昼間から呑んでいるし、『笑点』の人が遊びに来るし(笑)」

そんな父が大好きだった彼は、やがて後を追うように入門を志願する。「商売は何でもいいけれど、親父みたいになりたいと思っていました。でも、芸道を目指すことは堅気の世界と決別することになる、そんな次元まで考えていなかった。それを悟られて、鉄拳制裁を受けましたね」

そんな腹の括り方かと、本気で殴られた。父の覚悟を肌で感じた。今もあの痛みを体が覚えているという。そして前座修業中に若くして急逝した父との対話も、今なお続く。

「今こそ教えて貰いたいことがたくさんあるのに、なぜいないのかと嘆くこともありました。父ならどう行動するだろう、表現をするだろうといつも想像しています。そう考えれば、今も一緒にいるようなものですね」

二ツ目になって本格派と評されるようになった。江戸っ子然とした切れ味抜群の啖呵(たんか)は、落語ファンにも評価が高い。人気ユニット「成金」メンバーの筆頭にも名を連ねる小痴楽だが、常に試行錯誤中だという。「売れた売れないと判断できる段階ではありません。勉強と反省の連続で、満足な高座がいつできるのか」

そんな彼に最近目標ができた。「ごく稀(まれ)に高座で八五郎が勝手に喋りだすことがあります。ほんの少し噺とシンクロできた瞬間かもしれません。これを増やしたいですね。そしていつかは、やはり親父のようになりたいです。本当に落語に出てくるような人でしたから(笑)」

独創的な世界観がもたらすカオスの果ての抱腹絶倒
瀧川鯉八

「落語の枠から飛び出した“鯉八”というジャンル」

登場人物全てが自分自身
主観のみで語る新作落語

突然現れる黒マントの男。公園で遊ぶ無邪気な少年を集め、奇想天外な話をフワフワと語り、呆気(あっけ)にとられる姿を尻目に、笑いながらさっとマントを翻して去っていく。

乱歩の小説を思わせる、この不思議な光景が理想形だとうそぶく新作落語家。それが瀧川鯉八だ。唯一無二の世界観は、もはや落語という枠を飛び出した〝鯉八〟というジャンルだと、落語通をして言わしめる。「登場する人物が、全て自分のコトバを話さないと気がすまないんです。語る者、反駁(はんばく)する者、傍観者、みな私の分身である主観のみの世界。もちろんお聴きになるお客様も」

いささか難解な話だ。その状況を共有し、笑いに昇華できる観客は、確かにほかに類を見ないようなリアクションで会場を爆笑に包み込む。しかし、共有できない場合は…。「不快になり、二度と見たくないと思う方もいるでしょう。でも、それも私の本音です。自分を愛するのと同じ振り幅で、嫌ってもいます」

それでも、そこには後悔の入り混じった、ある種の忘れられない気持ちが残るはずだと冷静に言い放つ。「自虐的な快感になりうるのでしょうか。しばらくすると再び足を運んでくださる方もいらっしゃる。そして、やはりわからないと嘆いてお帰りに。でも、また少しすると…」

それでは落語の持つ人情味、温かさには興味がないのかと問うと、即座に首を振ってこう答える。「その温もりを全身で感じ、鯉昇に入門しました。でも、どんなに愛しても、私には表現できなかった」

そして、分不相応で無礼な例えとお叱りを受けるのを覚悟で申しますと前置きをして、こう言った。「私は藤子不二雄A先生を目指すことにしました。F先生は否定するどころか最大の憧れです。おふたりは表裏一体。私にとっては、『笑ウせぇるすまん』も『ドラえもん』も、かけがえのないファンタジーなのです」

この答えに、なるほどと膝をうった時、すでに鯉八という深淵のほとりに立っているのかもしれない。